西山まなみが構える火縄銃
ふれれば発射される命のほとばしり
修繕の依頼が寄せられる。内大輔にこう告げる人がいる。
「どうせ撃つことはないし、外見だけきれいに整えてくれればいいから」
内大輔は、こう答える。
「火縄銃は、飾り物ではありません。使えるように修繕しなければ、日本古来の文化を後世に伝えることができません。撃つことができてこその火縄銃です。もちろん、決して撃つ機会が与えられないとしてもです」
私が取材の申し入れに内大輔を訪ねたときの悋惜の言葉が象徴的だった。
上/射撃を終えた筒の内部は煤に汚れている。
下/洗浄を終えた筒の内部は外光を万華鏡のように通す
「刀剣は斬れるように、槍は突けるように、弓だって射れるように修繕してくれと言われるでしょう。どうして火縄銃だけが展示品で構わないと認識されるんでしょうかね」
多くの人たちは、火縄銃には日本の武道の精神性を見つけられないのかもしれない。
「飛び道具とは、卑怯なり」
そんな言葉が伝えられている。
刀剣や槍を武器に、対峙し接近戦で命を競ってこそ武士の道である。
それは武術へのロマンではあろうが、実戦はどうだったか。
玉込め棒のかるかは、狙撃台の役割も果たす
弓による飛射は、飛び道具である。しかし腕で弓を引く。鍛錬の成果だと誰もが思う。
火縄銃は、機関部に着火して弾丸を発射する。
ここに遣い手と武器との間に遊離があると誤解されているのではないか。
「武術としての鍛錬を必要としない単なる殺傷兵器なのではないか」
だから卑怯なのだと、だから武士道の精神性がないのだと誤解されているのではないか。
だからこそ内大輔は鉄砲隊を組織して、実戦における火縄銃がどのように使われていたのかを公開する。
用心金と引き金にこそ、繊細な武の職人技が反映されている
「撃てっ、とは号令しないんです。放てっ、と号令します」
そう言って、内大輔は私に調整したばかりの火縄銃を渡した。
「引き金は引くんじゃないんです。ふれるんです。さわるんです」
用心金と呼ばれる、引き金を取り巻いている輪から、人差し指を滑らせて引き金に触れた瞬間、火縄は火皿に落ちた。実弾が込められていれば発射撃の瞬間である。
グイと、引くのではなく、ふれれば、放たれるのが火縄銃なのだ。
「-火ばさみ落ちること、朝露が葉に落ちるがごとく-と古文書に書かれています」
言われて、二度目に引き金に指を添えるときに、私の胎内で、危うい恐怖に似た感覚が覚醒した。
銃身の筒の内部を撮る中野昭次。シッターはまるで引き金だ
「今か、今ではないのか。撃つか、撃たぬのか……」
ふれれば放つ火縄銃である。精神の鼓動が引き金の一点に集まる。
撃つ、いや、放てばすべては一瞬で決まる。
命を争う戦場であれば、なおさらだ。
刹那の一瞬に、全身全霊を込める命のほとばしり。
この緊張と静寂こそが、日本人が武に求め続けた精神性そのものではないか。
尾栓をケアする内大輔
「撃つことができてこその火縄銃です」
外装だけを整えてくれれば、機関部は修繕しなくても構わない。
そうした依頼に異を唱える内大輔は、武の本質を火縄銃に見いだし続けているのだろう。
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