破ることで守る伝統工芸 蒔絵師・野村大仙の挑戦

 

野村大仙作の長皿

 

モノ作りは豊かに生きることそのもの

 

モノの価値は、どのようにして評価されるのか。
モノを作るという体験が、作られたモノの価値を理解する力を養うのではないか。
子ども時代にあなたは経験していないだろうか。
空き地に、森林に、橋の下に、自分たちしか知らない秘密基地を作った。
段ボール箱を組み合わせ、ときに色を塗り、飾りをつけて自分だけのお城を作った。
絵を描いた。折り紙を折った。人形を作った。貝殻細工を作った。料理を作った。
あなたが手作りしたモノは、あなたにとってかけがえのないモノであったはずだ。
美しく焼き上がったクッキーを、食べてしまうのがもったいないと感じるように。

 

奥に座るのは弟子の太田縁

 

やがて少年たちは模型を組み立てたり、人数が揃わない野球の独自ルールを作ったりする。
やがて少女たちは人形を自分だけの話し相手にするために、衣装を着せ替えたりする。
モノを作る、モノを加工する、モノを大切に扱う体験は、モノの価値が判断できる大人へのステップである。
その課程で審美眼が養われる。モノの価値を見定める審美眼は養われる。
「目を養う」と言う。「目を育てる」とは言わない。
装飾への審美眼。デザインへの審美眼。作られたモノの本質へ迫る審美眼。
それは強要されて覚えるものではなく、自分で養う「モノを見る目」なのだ。
豊かに生きるためには、好き嫌いがあって良い。
あなたが好きなモノは、ときに自分を安心させ、ときに自分をなぐさめ、ときに自分を奮い立たせる。自分を感動させることすらできる。
「手間をかけずに、プリントすれば安く作れるじゃない」
それもひとつの、モノの価値への考え方で構わない。
装飾への、デザインへの、機能性への評価は他人から強要されるものではない。

 

野村大仙作の棗

 

私は服飾にうるさい。好きだからうるさい。そしてうるさいのは良いことだと思っている。
生地にうるさい。縫製にうるさい。デザインにうるさい。
うるさい私が、40歳を過ぎた頃、イタリアのブリオーニ製のスーツに袖を通したとき久しぶりに感動の声を挙げた。
「何て動きやすく、美しく、そして身体を包み込むスーツなんだ」
無遠慮にも、裏地をひっくり返し、肩の運針を見た。そしてまた感動した。
何層もの生地を薄く重ね、ひと針、ひと針は手縫いされていた。ボタンホールの穴までがミシンではなく手縫いだった。だからこそ80万円は安いと思えた。
職人の美意識と、手仕事と、着る人への無言の配慮がスーツ一着に完結されていた。
ローンを組んで、そのスーツを購入したものだ。

 

 

一方で、私とは別の意味での無遠慮の声を聞いたことがある。
「おいっ、このベルト。どこでSTデュポンだってことが分かんだ?」
店員はブランドのロゴマークが見えないことを謝罪させられていた。
その中年男性は、ベルトに込められた革製品の手工芸には価値を見いだせないのだろう。
手仕事がもたらす感動を、モノに込められた豊かさを見つけられないのだろう。
ブランドのロゴマークを見せびらかすことが、モノの価値だとたぶん信じているのだろう。
モノを得ることに感動がない。感動がないのだから豊かさを感じられない。

 

野村大仙作の長小箱

 

好き嫌いで、構わない。
モノの価値を見定める基準軸を養っておくべきだ。
そうしないと、豊かに生きられず、自由は得られない。
モノを観る目を養うことは、自分を養うことである。

 


 

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