サンケイリビング新聞社カルチャー倶楽部横浜の生徒の皆さん
師匠と弟子との言葉のない会話
山崎ちえにとって難関と感じたのは、盆栽の技能の習得よりも、会話力だった。
「人前で話せないんです。声が出ない。スピーチがとても苦手でした」
山登りに夢中になった大学生時代にも、盆栽の技能を磨いた修行時代にも、とくに会話をしなくても困ることはなかった。
好きなことを仕事にするには、好きなことだけをやっていてはいけない。
「話し方教室へ通うことにしました」
盆栽展示会で販売するにあたって、盆栽教室の講師を引き受けるにあたって、会話力は苦手でも身につけなくてはならない課題だった。
黒松の芽切りを指導する
神奈川県のJR関内駅からほど近い、サンケイリビング新聞社カルチャー倶楽部横浜で、
山崎ちえは、盆栽教室の講師を務めている。
「暖かいところが好きです。基本は室外です。冬の寒さには弱いので風、霜のあたらない陽だまりに置いてあげましょう」
イソザンショウの盆栽について講義をする。
「植え替えの前に、葉刈りをしてあげます。一つ一つていねいに、はさみで切りましょう。植え替えの際に根を切るので、水の吸い上げが鈍ります。その時に葉が多いと蒸散と吸い上げのバランスが崩れるので、葉の量を減らしてあげます」
生徒は山崎ちえよりも、年上ばかりである。質問が飛んだ。山崎ちえが答える。
「花ですか、咲きますよ。5月、白い花が咲いて実がなりますよ」
さらに質問が飛んだ。
「えっ、磯山椒(イソザンショウ)の実ですか。辛いのかどうか……、私は食べたことはありません」
生真面目に答える山崎ちえに、生徒たちからの笑い声が重なる。
盆栽は、高みに登ることだけを目指す芸術とは限らない。
楽しむこと、親しむこと、愛でること。
手のひらの上の大樹をいつくしむ精神こそが盆栽の魅力だと山崎ちえは、伝えたいのだ。
ただ、プロの盆栽師として心得ていることはある。
「他の人の模倣をしていると、行き詰まるんです」
スランプは突然に降りかかるという。
「針金を巻いているときに、考えちゃうと駄目ですね。過去のミスをフラッシュバックのように思い出したりして、そうなると手が雑に動いたりします。良いことを考えられなくなって、負の連鎖みたいな思考になってしまって、身体も盆栽についていけなくなります」
どうしようもなくなると、やまと園に向かう。
あちらの席、こちらの席へと山崎ちえは歩き回って指導を続ける
広瀬幸男は、そんな山崎ちえを見て、
「どうした」
とだけ声をかける。
そこからは静寂のなか、広瀬幸男が盆栽に施す手仕事が続く。
広瀬幸男もまたしゃべるよりも、手を動かして盆栽を丹精する方が性に合っているのだ。
「ありがとうございました」
山崎ちえは、感謝の言葉を述べて自宅に戻る。
そこからは夢中になって盆栽に手を動かす。
盆栽師の師匠、広瀬幸男は、盆栽師の弟子、山崎ちえに無言で次なる道を示すのだ。
登竜門は、もしかしたら、たったひとつではないのかもしれない。
長いトンネル。それも抜けたと思った途端に、また入り口が現れるトンネル。
山奥の高速道路に、連なる長いトンネル。
抜けたと思うと、また闇に車体を包まれる連々たるトンネル。
植え付け時の針金で固定する方法を見せる
どれほど、抜けるのに走り続けなければならないのか。
登竜門は突然に口を開ける。プロの職人としての覚悟を何度でも尋ねてくる。
山岳の緑に包まれた経験が、盆栽師への門を開いたのだとしたら、山崎ちえの青春はまだ続いているのかもしれない。
登竜門とリンクした青春の門は、まだ閉じられていないのかもしれない。
取材・文章/浦山 明俊
撮影/川口 宗道 中野 昭次
編集/吉野 健一
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