平らな銀盤を槌で打ち出して、曲面に仕上げる 笠原銀器

 

75歳にして、初めての弟子

 

寺澤稔は1983年生まれである。7年前の2011年に笠原信雄に弟子入りした。

 

笠原信雄の初めての弟子だという。

 


師匠の笠原信雄と弟子の寺澤稔

 

「私は弟子をとらない主義だったんです。でもこいつが、断っても断っても、玄関先で毎日のように立ち続けて、頭を下げるもんだからね、根負けしてね」

 

いまでは、笠原信雄と向かい合って、自分専用のあて台の後ろに座る。

 

弟子としてまだ生活費を稼げるだけの技能はない。寺澤稔は言葉少なに打ち明けた。

 

「工場で仕分けのアルバイトをしながら、師匠のところに通っています」

 

もともとはバイク関係の仕事に就いていた。リーマンショックの時代にリストラされた。

 

「金属が好きなんです。なかでも活きている金属が……」

 

寺澤稔の言葉じりは、消え入るかのように頼りない。話し下手であるようだ。

 

このおとなしい青年のどこに、職人への弟子入りを志願させる動機があったのだろうか。

 


急須の注ぎ口を叩き出す寺澤稔

 

「バイクもそうだけれど、銀器って、生きものじゃないのに命が宿っているかのようなぬくもりを感じさせてくれる。しかも使い続けると、自分の方を向いてくれるっていうか」

 

固定ではなく、変化こそが寺澤稔の考える金属の魅力なのだという。

 

「叩いて応えてくれる金属の変化、それから銀器なら、経年変化でいぶし銀に成長していく変化。そこに命が宿っているように僕には見えるっていうか」

 

寺澤稔が初めて師匠から教えてもらったのは、あぐらのかきかただったそうだ。

 

師匠・笠原信雄は寺澤稔に銅板を用意したという。

 

「金属のしぼり方を覚えていきました。ビール用コップ、角皿、ティーカップ、スプーン。材料がなくなるまで、色々な物を作らせてもらいました」

 

師匠と同じ精度では形作れないと思い知った。言葉少ない寺澤稔にじれたように、

 

「いまのこいつなら、ぐい飲みくらいなら、きちんとした製品を作りますよ」

 

と言葉をはさんだ。あて台は寺澤稔の専用台だという。

 


師匠は手のひらに包み込んで叩き出してしまう。

 

「体格が違う。道具の高さをちょうど良い位置に固定するのには、自分の体格に合わせたあて台が必要になるんですよ」

 

話し下手の弟子に代わって、師匠が私の質問を察して先回りして答える。寺澤稔がやっと答える。

 

「師匠の作品のレベルには追いつけないでしょうけれど、自分なりのやり方を見つけるというか、アレンジしていく面白さがこの仕事にはありますかね。面白いことは、とても難しいんですよね。でも、難しいことを乗り越えると、もっと面白くなるんですよねぇ」

 

使ってもらえて、かつ寺澤稔作品として個性的な工芸品であるところを目指しているという。

 


急須の注ぎ口を加工する笠原信雄

 

東京文京区本郷にある笠原銀器製作所をあとにするときに、製作所を入り口近くの土間に、バイクが停められているのを見た。

 

誰のバイクなのかは分からない。

 

ただ玄関には、若き日の笠原信雄がバイク、カワサキ・ボイジャーでツーリングしていた頃のポートレート写真が飾られていた。

 

 

取材・文章/浦山 明俊
撮影/川口 宗道
編集/吉野 健一

 


 

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