守る伝統切り開く未来常滑焼
作陶の空間、語らいの時間
木造トタン壁に羽目板ガラスの窓。古びた工房の室内は静かだ。チャイコフスキーの白鳥の湖が響く。
陶芸家、清水源二、71歳。陶号は、清水北條(ほくじょう)。
北條の号は二代目である。祖父は甕(かめ)を作陶していた。
清水北條の作る常滑焼の茶器は、経済産業大臣指定伝統工芸品だ。
クラシック音楽が流れる清水北條の工房
愛知県常滑市は知多半島の海沿いの町で、陶器の町である。
平安時代末期の12世紀から大型の甕や壺を創出させ、現在の岩手県や神奈川県、広島県、福岡県などの遺構からも陶片が出土することから、日本全国に運ばれて使われてきた歴史があると推測されている。
現在の常滑焼といえば、朱色の急須が有名だが、江戸時代から平成に至るまで、食品運搬用の甕、油や醤油、酒の貯蔵甕、茶碗、小皿、大皿、藍染めの染料入れ、さらには水道管などに使われた土管までを陶器として作ってきた。
そして今も、伝統を守りながらも新時代の陶器を創出する精神にあふれている。
急須の胴が姿を現す
清水北條がろくろを回す。水を含んだ土が、両手に絞り上げられながら、両手の内に筒状の形が作られる。
筒が膨らみ、急須の胴が形を現してきた。ロクロが回転したまま、糸で胴部を切り取り、傍らに置く。
続いて取っ手が作り出される。さらには注ぎ口が作り出される。蓋が作り出される。
すべては土から生まれ、すべてが清水北條の手業から生まれる。
ガラス窓からは初夏の光が工房に注ぐ。清水北條はひと言も発しない。
刷毛を使って、胴の内側の水分を取る。胴の外側には刷毛で水分を与える。
乾燥のために干すときに、胴の内側と外側の水分量が整うように配慮しているのだ。
細い注ぎ口の内側は、竹のへらで削られる。
胴の内側を膨らませる如意棒は50年間使い続けている。一方で竹のへらは2年で作り替えるという。
左 急須の蓋を作る
右 急須の取っ手を作る
形作られた急須の胴を、清水北條は縦に糸を入れて、切断して見せてくれた。
胴の中央付近はもっとも薄く、3ミリしかない。これが窯で焼きあがるとさらに2ミリに縮む。
台の部分は厚みを持たせ、机に置いた際に、お湯の熱さが伝わらない構造になっている。
型抜き製造では、決して作れない職人技がこの断面で分かる。
「お茶にしましょう」
ろくろ台の前から清水北條が立ち上がった。険しい顔が満面の笑みに変わった。
淹れてくれたのは玉露である。いったん沸騰させたお湯を45度までに冷ましてから淹れないと、玉露という煎茶は香りも味も損なわれる。
清水北條は、自らが作陶した玉露専用の急須で、私たち取材班に煎茶をふるまってくれた。
お茶は最後の一滴(ひとしずく)に旨味が凝縮される。この一滴をゴールデンドロップと呼ぶ。
玉露専用の急須も清水北條の作品
しばし、歓談が続く。クラシック音楽、楽器、美術、造形、色彩、土……。清水北條の知識の豊富さに私は驚かされた。
「そうか、清水北條という人は、茶文化そのものを体感しながら、茶器を作っているんだ」
と私はその笑顔に共感した。
イギリスでは、ハイティーの文化がある。
黙って紅茶を飲むのではない。
政治、経済、美術、服飾、音楽、文学、哲学、天文学……。あらゆる話題に教養をちりばめながら紅茶のカップを傾け合う。
香港では、鳥かごを持ち寄り、プーアル茶を囲んで、鳥の鳴き声を互いに楽しむ飲茶の風習を私は体験したことがある。
森羅万象は、お茶とともに語らいあえるのである。
抹茶を使う茶の湯よりは、フランクでカジュアルなのが煎茶だ。
清水北條が煎茶を注ぐ。陶芸家の手はきれいだ。常に土でパックされているからなのだそうだ。
小さな湯飲みを口に運ぶ。茶碗の縁が、唇に心地よい。
縁には1ミリにも満たない、厚みのカーブが施されていて、唇が湯飲みをホールドするように仕上げられている。
この感触に、私は小さな湯飲みを唇から離して、湯飲みの縁をしげしげと見つめた。
清水北條はにこにこと、私の仕草を見つめて微笑んでいる。
「おやっ、気がつきましたか」
とは、決して言わない。静かに微笑んでいるだけである。
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