ワイシャツという言葉は
ここから始まった・大和屋シャツ店

 

 

ワイシャツは和製英語

 

シャツは下着だった。アンダーシャツのことではない。スーツやジャケットの下に着る、いわゆるワイシャツである。

 

現在にもその名残が見られる。裾がU字にカットされているシャツは少なくない。そのU字の部分をクリップやボタンで留めて、まるでおむつのようにパンツの代わりにしたのである。

 

下着だったシャツは襟(カラー)と袖(カフス)が付け外しができるものだった。

 

最も汚れる部分が取り外し可能で、襟と袖だけは常にパリッとした服装で、その上に上着を着たわけだ。

 


カラー(襟)とカフス(袖口)の見本が掲げられている大和屋シャツ店

 

襟と袖が初めから縫い付けられ、ビジネスマンが着るような現在のシャツを世界で初めて作ったのは1838年創業のフランスのシャルベであるといわれている。パリに本店を構えるシャツ専門店はいまでも世界の顧客を満足させている。

 

それ以前は白一辺倒だったシャツにピンクやブルーのシャツを提供したのは、シャルベが初めてだとも、いや1885年創業のイギリスのターンブル&アッサーだともいわれている。ストライプ柄のシャツを提供したのも、ターンブル&アッサーだといわれている。

 

そうだ。シャツといえば下着で、襟と袖は付け替え式で、白一辺倒だった。

 

だから和製英語のワイシャツという言葉が生まれた。

 


ホワイトシャツがワイシャツの語源

 

1873(明治6)年といえば、日本は江戸幕府の支配を離れ、侍社会が幕を閉じたばかりだ。西欧の文化が横浜の港から次々と日本にもたらされていた時代である。

 

18歳の石川清右衛門は寄港中の西洋人から一着の衣服を譲り渡された。

 

西欧人はそれを「White Shirt」と呼んで渡したのだが、清右衛門は、これを「Yシャツ」と聞き間違えた。

 

清右衛門はそれまでの日本では見たことのない白いシャツを解体しては縫い直し、シャツの構造を徹底的に独学した。ついには白い生地を裁断して、縫製してシャツの自作に成功した。

 


東京銀座6丁目の大和屋シャツ店

 

1876(明治9)年には、横浜関内に「大和屋ワイシャツ店」を創業することになる。

 

1959(昭和34)年に、本拠地を銀座に移転して「大和屋シャツ店」は営業を続けている。日本最古のシャツ店である。

 


D&Jアンダーソンの貴重な生地を広げる菱沼三彦店長

 

大和屋シャツ店の店内の壁には900種以上の生地の在庫が並ぶ。店長の菱沼三彦が生地を広げる。

 

生地の宝石と呼ばれるカルロリーバ(イタリア)が広がる。デビット・ジョン・アンダーソン(スコットランド)の240番手の生地が広がる。アルモの320番手の生地が広がる。番手とは糸の細さで、数字が高いほど細い糸で織り上げられている。

 

トーマスメイソン、カンクリーニ、テスタ……。

 

何ということもなく、世界のシャツ生地ブランドを列挙しているが、これだけ上質の生地を次々と並べられると、シャツ豪奢を自認する私はかなり興奮した。

 

カルロリーバを例に挙げよう。品質にこだわるあまりシャトル織機という低速でしか織れない機械を使っているため、生産量が圧倒的に少なく幻の生地と呼ばれている。

 

D・Jアンダーソンなどは、シーアイランド・コットンだけを使用している。世界で生産されるコットンの総量の、わずか6パーセントという非常に希少な綿花から作られる。3.1μ~3.4μという並はずれた細さで、光の反射率70%を超える輝度で、耐久性においては繊維1本辺り40gの重さにも耐えられる。柔軟と堅牢を兼ね備えた、やはり幻の生地である。

 


生地の宝石と呼ばれるカルロリーバ

 

店長の菱沼三彦は言う。

 

「創業から141年目のシャツ店ですから、世界の有名生地メーカーとの取り引きは弊社への信頼で成り立っているんだと思います」

 

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)や、イギリス皇太子、32代アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトも顧客として大和屋シャツ店でオーダーしたという。

 

私は、大和屋シャツ店の着心地を、この身体で確かめるべく注文することにした。

 


顧客名簿にはイギリス皇太子やアメリカ大統領の名前が並ぶ

 


 

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