服飾のコンサルタント職人 鵜飼孝次


 
吉野健一は思っていた。
「太っている自分の体型には、ダブルのスーツを勧められるはずだ」
吉野健一は思っていた。
「日焼けした肌色の自分には、濃い色の無地のスーツ生地を勧められるはずだ」
吉野健一は思っていた。
「白いワイシャツなら、自分にも着こなせるだろう」
吉野健一は思っていた。
「海の男なら、ネイビーのブレザーと決まっている」
吉野健一は思っていた。
「紺色のブレザーには、ストライプのネクタイと相場が決まっている」
吉野健一は思っていた。
「海が好きな自分は、夏色が似合うはずだ」
分析の結果で、オータムの色彩群が似合うと判明した。
面談を進めるうちに、吉野健一のファッションタイプは、ナチュラルだと判明した。
 
鵜飼孝次は、採寸をしながら、吉野健一にこう言った。
「吉野さんの本質は、繊細な心遣いと、優しい性格です。編集長という立場に似合うのは威厳です。繊細な軽さと、明るさと、威厳をミックスした服飾を提案します」
 
採寸が始まる
採寸が始まる
採寸が始まる
 
鵜飼孝次は靴の採寸をしながら、言葉には発せず、心の中で「そうか……」とうなずいた。
 
鵜飼孝次は笑顔で吉野健一を見送った。
 
その日の夜から、鵜飼孝次は机に座り、スーツやシャツやネクタイなどのデザイン画を描き込んでいく。どんな色彩の組み合わせにして、どんなシルエットのスーツにするか。シャツのデザインは、靴のデザインはどうするか。ときには徹夜を続けて、試行錯誤を繰り返す。
 
そして生地を求めて問屋を歩き回る。日本製の生地に限らない。ときにはヨーロッパに飛んで、生地を探してくることもある。
 
ここからは銀座スタイリストの楽屋裏である。
 
私たちは、東京都内にある某テーラーの工房を訪れた。
 
フランスのドーメル、イタリアのロロピアーナ、イギリスのホーランド&シェリーなどの高級生地が、所狭しと並んでいる。
 
銀座スタイリストは、職人たちとのネットワークを武器にしている。
 
つまり鵜飼孝次が、ここの職人は一流だと見込んだ工房に、スーツやジャケット、パンツの製作を発注し、また別の工房にシャツの製作を発注し、皮革加工の職人や工房にベルトや靴の製作を発注する。
 
たくさんの職人たちとネットワークを結んでおけば、お客の個性に合わせた服飾作りに対応できるからである。
 
もちろん、本来ならそのネットワークは銀座スタイリストのトップシークレットだ。
 
その企業秘密の楽屋裏を今回は特別に、私たちに見せてくれた。
 
一枚の布から
一枚の布から
一枚の布から
一枚の布から
 
福田直樹は、某テーラーのフィッター職人だ。イタリアのテーラーに留学し、帰国後は銀座の有名テーラーで、長く日本のVIPたちのスーツを作り続けてきた経歴を持つ。
 
私が驚いたのは、生地の柄だった。グレンチェック。正しくはグレナカードチェック。別名をプリンス・オブ・ウェールズ・チェック。ウィンザー公、エドワード8世が皇太子だった頃によく着用していた。ちょうど第一次大戦の前の時代だ、
 
千鳥格子とヘアラインなどの複雑な模様を組み合わせた柄の生地は、スーツに仕立てたときに、柄の合わせ目がずれてしまうことが起こりやすい。
 
ましてやパターンオーダーではなく、仮縫いを経て完成させるフルオーダーである。柄の合わせ目のずれを起こさせないためには、裁断の段階から、立体的な体型をイメージしていなければならない。髪の毛1本分のずれすら許されない。
 
ごまかしが効かない柄なのである。
初めてのフルオーダーでこの柄を選ぶことは、仕立て職人ならまず避ける。
 
だが、鵜飼孝次が福田直樹の元に持ち込んだ生地は、このグレンチェックだったのである。
 
福田直樹はそれだけの技術を持った職人だということになる。
 
福田直樹の手にした裁ちばさみが、一瞬の迷いもなく生地を裁断していく。
 
究極の技、よく見ると逆手の断裁
究極の技、よく見ると逆手の断裁
 
寿司職人が、薄い平目を包丁でさばいていくのに似ている。
直線から曲線を裁断するにも、同じスピードで裁ちばさみは進む。
 
生地の裁断を撮影している私たちは、呼吸が止まる思いで、その手さばきを見つめた。
 
仮縫いの日は、福田直樹が吉野健一にピン止めしたスーツを着せた。
鵜飼孝次が言った。
「襟のラインをもう少し、胸板に接近させましょう」
「上着の裾の長さを、5ミリ短くしましょう」
二人がかりでの仮縫い試着に、吉野健一は緊張して直立したままだった。
「動いてみてください」
鵜飼孝次が言う。
「歩いたときや、座ったときのスーツの形と着心地を確かめたいのです」
福田直樹によって襟が外され、袖が外され、数ミリ単位での微調整が続いた。
 
仮縫いの微調整
仮縫いの微調整
仮縫いの微調整
仮縫いの微調整
 
「このスーツに、白いワイシャツは着ないでくださいね」
と鵜飼孝次が微笑む。
「吉野さんによく似合う色と形のシャツをいま制作中です」
 
福田直樹はスーツのパーツを丁寧に仕舞い、銀座スタイリストから去った。
 
「ダブルの上着じゃないんですね」
福田直樹が去った銀座スタイリストで、吉野健一がつぶやいた。
鵜飼孝次は、静かに微笑むだけだった。
 
緊張もほぐれて……
緊張もほぐれて……
 


 
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