鍛造とは叩いて形を作ること

 

高知県南国市にある鍛冶屋トヨクニでは、日本刀を作る技術で、包丁、ナイフ、農具刃物、山林刃物、その他の数多いラインナップの刃物を製造している。

 

四代目豊国・濱口誠

四代目豊国・濱口誠

 

金属加工製品の製造には、大きく分けて二つの方法がある。

鋳造と、鍛造である。

 

鋳造は金属を溶かして液体にし、型に流し込む加工法で、大量生産に向いている。コストも安く製造できる。

 

鋳造だと内部に気泡ができてしまうことがあり、これが強度を下げる原因となる。また厚みが違う部分を冷やした際に応力(物体内部に生じる力)が残り、内側から力がかかることもある。これも強度を下げる原因となる。

 

鍛造は金属を叩いて、形を打ち出し、整えて加工する。

長刀なら、長刀に、短刀なら短刀に、鉈(なた)なら、鉈の形を、たたき出して、その形へと作り上げていくのである。

 

鍛造は叩く過程で金属の結晶を整える。気泡は叩くことで金属の内部から追い出してしまう。強度がありながら、柔軟性を併せ持つのが鍛造だ。刃物作りにおいては、粘り強くて切れ味の鋭い刃物を作り出すことができる。

 

トヨクニでは、鍛造のみで刃物を作っている。

 

槌だけではなく、ベルトハンマーでも叩き上げる
槌だけではなく、ベルトハンマーでも叩き上げる

 

代表取締役の濱口誠(はまぐちせい)は、四代目豊国の名を襲名している。家業に伝えられてきた職人名である。しかし土佐鍛冶の歴史はもっと古い。土佐とは高知県の古い呼称だ。

 

1600年の関ヶ原の合戦の功績により、山内家は、徳川家康から土佐一国を与えられた。

土佐には、関ヶ原の合戦以前にこの地を支配していた長宗我部(ちょうそかべ)家の残党が残っていた。

 

掛川(静岡県)から土佐に支配者として乗り込んだ山内家と長宗我部家の残党とは激しい戦闘を繰り返した。この合戦の際には、刀や槍(やり)が必要となる。

 

濱口家をはじめとする、土佐鍛冶の集団は、徳川家康の命により佐渡島(新潟県)から山内家に従って、土佐の地に移り住んだ。

 

仕事は日本刀や槍などの武器を鍛造することにあったが、じつは合戦場にも出向いた。

 

合戦場で刀が折れたり、曲がったり、切れ味が鈍ったりすることがある。

 

衰えた刀や槍を手にした侍は、自陣に戻り、土佐鍛冶に修繕してもらうのであった。

 

山内家が土佐を平定し、平和な時代に移ると、土佐鍛冶は、鍬や鋤や鎌などの農耕具を鍛造するようになった。そうした時代が400年以上も続いた。

 

1100度の炎から取り出された成形前の鉈

1100度の炎から取り出された成形前の鉈

 

鍬や鋤や鎌などの農耕具が機械化によって手作業を離れる時代になる。むろん、手作業の農業は残っているが、鍛造農耕具の需要は減り続けた。

 

そんな昭和30(1960)年代になると、林野関連の刃物の需要が増える。斧(おの)、鉈、鎌(かま)、のこぎり、小刀などの需要が増えた。濱口誠がトヨクニの家に生まれたのは、そうした時代だった。

 

昭和38(1963)年に、土佐鍛冶職人、四代目豊国、濱口誠(はまぐちせい)は生まれた。

 

4歳のときから、父の鍛造場で遊んでいた。

6歳になると、父が鍛造した刃物の仕上げ作業をこなしていた。

鍛造のためのハンマーを振るうフォームを父親からたたき込まれた。

 

「生まれたときから、刃物を鍛造する職人、つまり鍛冶だったんです」

 

刃渡りの長さを測る

刃渡りの長さを測る

 

しかし鍛冶として順調に職人への栄光の道を邁進(まいしん)したわけではない。

 

職人としての挫折と、父や兄の技術へのコンプレックスが誠には立ちはだかった。

 

「職人ではなく、税理士になろうと考えたことがありました」

 

経済と経営と、数字に興味が深く、職人肌ではないと自覚していた。

 

ゆがみがないか目測でチェックする

ゆがみがないか目測でチェックする

 

20代の誠は、父親と兄が、鍛造を黙々と続ける工場を離れて、東京へ向かった。

 

「京セラの稲森会長の勉強会に参加したり、パナソニックの経営学の勉強会に参加したり」

 

優良企業の社長のカバン持ちも続けた。

 

「社長のカレンダーに予定が書き込まれるでしょう。その予定の入れ方をぱっと見るだけでも、経営のヒントがつかめるんです」

 

誰といつ会うのか、どんな会談を交わすのか。それは数分なのか、数時間なのか。会談の後には会食をするのか、しないのか。そこに人とつきあいながら、企業の利益を生んでいくヒントが隠されているのを誠は察知できた。

 

「作れるから、作るのではなくて、誰かのニーズがまずあって、そのニーズに応える製品を作らないと売れない。自分が作りたいものを作ってしまうとか、自分の技術を確かめるために作ってしまうとかは、職人が陥りやすい落とし穴なんです。極上の自己満足の製品はできても、売れる製品にはならないんです」

 

それから30年が過ぎて、トヨクニの刃物は日本国内はもちろん、世界各国に売れ続けている。

 

晶之(まさの)は豊国襲名前の濱口誠の職人名だった。その刻印

晶之(まさの)は豊国襲名前の濱口誠の職人名だった。その刻印

 

私が濱口誠に初めて会ったのは2003年4月だった。

 

「まだまだ父親と兄の技術には追いつけない。だから私は製品開発と、販路の拡大につとめようと思っています」

と語っていた。

 

2016年10月に会った濱口誠は、トヨクニを取り仕切るトップの鍛冶の職人になっていた。槌やハンマーを振るう姿は、自信にあふれ、刃物を研ぐ姿勢は、職人そのものである。

 

「親父の技術に追いつくには40年がかかりました」

 

濱口誠の職人技を紹介する前に、トヨクニの豊富な製品のラインナップを紹介することにしよう。

 


 

問い合わせ窓口:一般財団法人雇用開発センター
問い合わせフォームか、03-5419-3090まで